しりあがり寿さん「大事なのは、周りにいる仲間。助け合いながら冒険すればいい」

エッセイ、映像、ゲーム、アート、音楽など多方面で活躍する、漫画家のしりあがり寿さん。1985年に単行本『エレキな春』でデビューした後、2000年に『時事おやじ2000』(アスペクト)、『ゆるゆるオヤジ』(文藝春秋)で第46回文藝春秋漫画賞を、2001年には『弥次喜多 in DEEP』(エンターブレイン)で第5回手塚治虫文化賞「マンガ優秀賞」を受賞するなど、つねに第一線で活躍し続けてきた。
実は、しりあがりさんは大学卒業後にキリンビールに入社し、13年にわたり「会社員」と「漫画家」の二足のわらじを履き続けていたという異色の経歴を持つ。専業漫画家として独立するに至った理由や、独立について感じること、長期にわたって活躍し続けるための心がけ、独立・起業を目指す人へのメッセージなどを伺った。
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目次
漫画のために、会社を休んだことは一度もない
しりあがりさんが漫画家としてデビューしたのは、多摩美術大学在学中に同人誌で描いた漫画が編集者の目に留まり、仕事の依頼が来たことがきっかけだった。キリンビールに入社し、マーケティング部に配属されて間もない頃のことだ。しりあがりさんは、会社の了解を得て「会社員」と「漫画家」の二足のわらじを履くことになる。
「就業規則では、基本的にアルバイトなどの兼業は禁止されていました。それにもかかわらず、直属の上司が人事担当者に『見逃してやってくれないか』というような話をしてくれたらしいんです。会社には、ほんとうに恵まれていたと思いますね。13年間、会社の仕事と漫画家を両立できたのは、会社の人たちの理解があったからだと思っています」
もっとも、在職中は「会社優先」をつらぬいた。漫画の仕事のために会社を休んだことは一度もないという。
「漫画の仕事を受けるときも『会社の仕事が優先なので、その範囲でできることなら』と言っていましたから、長いページの連載などはできませんでした。いや、そもそも当時はそんな依頼は来ていなかったかもしれないですが(笑)。とにかく、漫画を優先したことはありません。『面白そうな漫画の仕事が来たら会社の仕事より優先しよう』ということでは、信頼がなくなってしまいますから。通勤途中で電車を乗り換える池袋駅で、漫画家と会社員の頭をすぱっと切り替えて仕事に臨んでいました。それから、漫画の仕事で会社に迷惑をかけることがないよう、気をつけていましたね。僕は広告宣伝やパッケージデザインなど企業イメージを伝えていく仕事をしていましたから、企業イメージの重要性は身をもって理解していました。漫画を描くにあたっては、会社名、本名、顔は出さないと決めていましたし、『変なものを描くわけにはいかないな』という気持ちもありました」
やりたい仕事を、思い切りやるために
会社を辞めたのは、36歳のとき。「いずれは独立しよう」という思いは長く持っていたものの、「一番搾り」の開発プロジェクトに入ったり、仕事はより面白くなった。なかなか退職の決心がつかないまま、時間が過ぎていった。
「でも、メーカーで36歳ともなると、そろそろ管理職になる時期なんですね。転勤とか営業への異動とか、そんな”風”が吹いてくる(笑)。僕はCMや商品パッケージの制作のような現場の仕事が好きだったので、部下をマネジメントするような仕事をやるのは向いていないんじゃないかと思っていました。
一方、漫画の仕事も、自分より下の世代の人たちがどんどん出てきて活躍していました。このままでは僕の仕事はなくなっていくだろうということは、見えていたんです。でも、まだ描きたいものがある。『やりたいほうに集中しないと両方とも先細りになるな』と思って、独立を決意したんです」
会社に迷惑をかけずにやりたい仕事を思い切ってやるには、独立したほうがいいのではないかという思いもあった。「悪い子になりたかったのかもしれないね。結局、そんなに悪いことなんかしてないんだけど」と笑いながら振り返る。
誰にも頼れない怖さ
会社を辞めてみて改めて思ったのは、「独立しても、好きなことだけできるわけではない」ということだったという。
「会社にいた頃にはほかの人がやってくれていたことも、全部1人でやらなければなりません。経理にしても、営業にしても。『面倒くさいなぁ』と思いました(笑)。それに世の中の流れって本当に速くて、いっときは世間からウケていても、パタッと仕事がなくなることもあるんです。僕はおかげさまで仕事が切れたことはないんですけれど、やはり『誰にも頼れない』という怖さや不安というのは常にありますね。ですから、好きなものばかり受けた方がその人の専門がはっきりするのか?とか、自分が気が進まない仕事も受けた方が幅が広がるのか?とかいつも悩みます。”先生”みたいになっちゃって仕事が頼みにくくならないように気をつけてはいますけど(笑)」
仕事には努力以外の要素もあると、しりあがりさんは言う。たとえば漫画がウケなかったとして、どうすればウケるようになるのか? 絵が上手ければいいわけでも、ストーリーに破綻がなければいいわけでもない。「何に向かって頑張ればいいのか」は、必ずしも明確ではない。だからこそ、やみくもに頑張るだけでなく、安定した収入が得られる長期の仕事や、自分に何かあっても代わりに稼いでくれるような「仕組み」も必要だと感じている。
「僕の場合は大学で教えたりもしていますが、本当は、組織的に収益を上げられる仕組みを作るとか、キャラクターを定着させてその権利を持つといったことも、もっと考えないとまずいなと思っているんです。でも、頭で分かっているだけだとなかなか実現できないんですよね」
努力が苦にならない道を選ぶ
独立して生きて行くには、相応の努力が必要になる。その努力を続けていくために、「努力が苦にならない道」を選んだほうがいいというのがしりあがりさんの考えだ。
「現代はものすごい競争社会。24時間、努力し続けないとダメだという感じはあります。だからこそ、やっていて楽しいこと、自然に努力できることで独立しないと、しんどいと思うんです。楽しいことなら、お金にならないときも続けやすいですしね。それから、その努力をお金に変える能力というのも必要でしょう。漫画家の場合、かつては出版社の編集者がその役割を担ってくれていました。『こういう才能がある漫画家がいるから、こんな漫画をあの雑誌で描かせよう』と考えて、才能をお金に結びつけてくれていたわけです。でも、最近では新しいメディアの力も増してきて、雑誌編集者頼みというわけにはいきません。電子出版のようなものへの挑戦や、自分で自分をプロデュースする工夫なども求められていると思います」
もう一つ、独立して仕事をしていくうえで欠かせない、大切なものがある。それは、お互いに助け合える「仲間」。
「何でも一人でやろうとすると、企業には勝てない気がするんです。だから大事なのは、周りにいる人ですよね。僕はすごくいい加減で、周りにアニメを作れる人がいればすぐ『一緒にアニメをやろう』と思うし、お芝居ができる人がいれば『芝居をやろう』と思う(笑)。いきなり自分一人でゼロからものを作るのは無理ですから、周囲の人を頼ってコラボするわけです。これは生態系みたいなもので、相互に循環させていけばいい。よく言うんですけど、『ドラクエ』ですよ。異なる能力を持つ仲間とパーティを組んで、助け合いながら一緒に冒険していく。だからご縁を大事にして、お互いに利用できるところは利用しながら新しいものを作るというのがいいんじゃないかと思っています」
- しりあがり寿しりあがりことぶき
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1958年静岡市生まれ。1981年多摩美術大学グラフィックデザイン専攻卒業後キリンビール株式会社に入社し、パッケージデザイン、広告宣伝等を担当。1985年単行本『エレキな春』で漫画家としてデビュー。パロディーを中心にした新しいタイプのギャグマンガ家として注目を浴びる。1994年独立後は、幻想的あるいは文学的な作品など次々に発表、マンガ家として独自な活動を続ける一方、近年ではエッセイ、映像、ゲーム、アートなど多方面に創作の幅を広げている。
現在、art space kimura ASK?(東京都中央区)にて「しりあがり寿個展『大回転祭』」開催中(~2014年1月22日)。
2014年1月18日には「しりあがり寿presents 新春!(有)さるハゲロックフェスティバル’14」を開催予定。イベントの詳細は公式サイト「ほーい!さるやまハゲの助」http://www.saruhage.com/で。